み篶刈る ③

下関に移り、文英堂の支店で店番をしながら、創作した童謡を「みすゞ」の名前で投稿し始めたテル。西条八十の目に留まり、次々と雑誌に作品が載る。鮮烈なデビュー。童謡を楽しむ人の間では、今でいう、ちょっとしたインフルエンサー

溢れることばとリズムをつづり表現することが、まさにみすゞ自身が「生きる」ということに変わっていく。書くということは息をするのと同じ、みすゞにとっては童謡が「命の証明・命の灯」のようになっていった。

その後上山文英堂社員で番頭候補の男性と結婚。しかし夫に童謡詩の投稿だけでなく創作仲間との連絡さえも禁止される。

息のできない苦しさを味わったに違いない。まだ幼い一人娘のふさえの片言を、色とりどりの南京玉に例え、書き留めることだけが彼女の世界になった。

離婚を決意するものの、まだまだ昭和初期。ふさえの親権を、母親がとれるはずもない時代だった。娘を連れ戻しに来るという夫の予告に、みすゞは、ある決意をする。

3歳の娘が心豊かな人に育つよう、養育は自身の母に託すという遺書をのこして逝った。娘の将来を思っての決断だったのだろうけれど、どう表現してよいかわからない感情になる。

せめてもの救いは、創作を禁じられていた頃のみすゞが書き留めていた、幼い娘の言葉の数々が、後年「南京玉」という一冊にまとめられたとき、娘さんがようやく、「私は愛されていたんだ」「母子になれた」と思えるようになったと語られたこと。ずいぶん前にドラマ化されたときにも、同じようにおっしゃっていた、と記憶している。

小さな資料館だったけれど、みすゞをとりまく多くの人の思いが、ぎっしり詰まった場所のように感じた。でも、近隣の方にはみすゞのことをよく知らなかったという方も多かったのだとか。

たまたまお話しした年配の方も、「母親や祖母の話にも金子みすゞの話はなかなか出てこなかったですよー。こんなたくさんの人が見に来られるようなひとだったんですね。」と。そんなものなのかな。

大正末期から昭和初期。文化は大衆化したとはいえ、興味とゆとりのある趣味人のものの域を出なかったに違いない。雑誌への投稿や掲載にしても、地方の片田舎。雑誌を自由に誰でもが買えるというわけでもなく、今ほど地元で話題にのぼることもなかったのかもしれない。

それでも、感性の同士だった実弟と矢崎節夫氏のはたらきにより広く知られるようになったみすゞの童謡は、100年近く経った今の時代にこそ必要な、みずみずしい感性と視点をたくさん与えてくれている。